昭和41年02月20日 夜の御理解
お互い日々こうして信心の稽古をさして頂いて生神金光大神のお取次ぎのお徳によって間違いなく神様のおはたらきを現して行くことのできれる道にお互い御縁をいただいております。私はそのことをお互いありがたい、またはもったいないこととして、喜んでいかなければならない。
またそういう現し方が出来れる信心とは、と言うところを追求していかなければならないと思う。とにかく教祖生神金光大神の上に現われておられるところのか神様、いわゆる総じて天地金乃神様と申し上げる神様、そういうその神様のご性格というか、なるほどいよいよ間違いのない対象であるところの神様であるなぁということを知らなければならない。自分のいただいている信心に自身と誇りというものが持てません。
そういうような事柄がさまざまな教えと同時に、その教えによって現われてくるお陰から、いつも間違いのない有り難い神様じゃなぁ、有難い信心に御縁を頂いていたおったもんだなーということを、まあその思いを深める訳でございますけれども、例えば「無常の風が時を嫌わん無常の風は時を嫌わん、というけれども金光大神の道は無常の風は時を嫌うぞ」ととおっしゃるという御教えがございますよね。
これが一般のまあ一つの観念ですよね、特に仏教的に云えばそういう観念なんです。無常の風は時を嫌わんと、こればっかりは何時どげなことのあるやらわからんけんとこういうのが。ああその一般的な観念なのです。ところがその金光大神の道はです無常の風が時を嫌わんと言うが金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞとこう仰る。
このへんなんかはですね、これはいよいよこの神様は生死を通してです。もう一時が万事になるほど神様のおかげをいただかなければ立ち行かないだけの働きと内容を持っておられる神様だと、それはまあよくもうしますよ一般ではまあ結局仏教から上ってもキリスト教からいっても天理教からいっても極めるところはその登って眺めるのはお月様お月様だとこういうわけなのです。
登り方が違うんだと云うけれども、このへんにじゃないと、いったようなものが感じられますですよね、金光大神の上に、現れておられるまた生神金光大神が、現された神様と言うのは、そんなもんじゃないように思われるんです。こう申しますと、いかにも我流のようにきこえますけど、私は事実をもってそう思うんです。これは、生き死にのことについてもそれが云えます。
これはもう皆さんも体験しておられる事であろうけれども、例えば出産なら出産のおかげを頂く。丁度穫り入れで一番忙しい時分になる、ですからどうぞ穫り入れが済んでからおかげを頂ますように、とお願いすればおかげを頂くでしょうが。まあ本当にいうならばその穫り入れと田植えの丁度真中の都合がよか時分に(?)の時分におかげを頂くそういう願いもでき、そういう働きもできる神様だということですよ。
死ぬるでもそうですよ。ほりやもう穫り入れの真っ最中にあそこのお母さんが死なっしゃったちうような、そこんところをお繰り合わせを頂きましたですたい。もうなにかにつけて近所の人に迷惑を掛けずに済む様なお繰り合わせを頂けれるということです。してみると無常の風が時を嫌わんじゃないということが解るでしょうが。これも椛目に御縁を頂いている方達が皆体験されることだと私は思うです。
ですからそうような例えばおかげを頂かせていただく、今朝の御理解にえら文男さんのことをほめて、ほめてというか、こういう信心が素晴らしい、私は文男さんがそれに繁雄さんの例をとって話したんですけれども、たとえばこの神様がお受けになるというのそれは、このささやかなということ、例えばこれも例に申しましたが隣のまだ叔父伯母がおります時ですまあだ私共ぐらいに若い時でしょう。
どっか近所から見事なその品評会にだしてもいいような大根のお供えをいただいたちいうわけです。伯母がもうとにかくお父さん早よう善導寺にお供えしてくれんのそんなら早ようお供えに行こう」と云うて持って行った。それをお供えされてからです、あの先代の時分ですよね。「田中さん今日のようなお供えが一番神様が喜ばれる。
今日のはよっぽど貴方たち夫婦の真心がこもっとったじゃろ」お三方にお供えさして頂いたら、大きな生鯛でお知らせがあった。大根が神様の目に生鯛に映った。「ちよっとお父さん、こんな大根いただいたすぐお供えを」そのへんのところがですね、常日頃何か出来ることがあるならば、何か神様に喜んで頂く物あるならばと何時も思い続けられて、そういう時にささやかな事にでも現われてくる訳なんです。
黒崎のおばあちゃんが私共の子供達で一番文男が細かいところまで気をつけてくれます。あれが無口でものを云いませんけれども、ほんとに細かいところささやかなところまで気をつけてくれます。しみじみありがたいと話してくれました。今朝ちょっと思い出させてもらったんですよ。常日頃親を大事にしたいとか親孝行したい親を喜ばしたいというものがなからねばそう言う風にして出てこない。よしでてきても取って着けたようなものでは、ねなにかしらん機嫌とられているようで、気色が悪か反って。昨日繁雄さんが直行してから合楽の方に御用に行かれた。夕方帰ってこられた。
(現場の御陰を頂いておられた)そしてかえってきて「あっ」ちいよんなさるとですよどうしたんのちいうたら、ああた椿の花を一枝あすけ頂いてきとったっを、あの東がはん水のでよるところにつけとったち、忘れてきた。「それやもうよかじゃんのそりゃもう」ていうけれどもです私は持ってきて植えてもろうたということもありがたいけれども、同じありがたさを感じるんです。
いかにここの事にいつも心を使うておられるかということです。そのことを話さしていただいたんです。そしたら今朝からじゃん、あの佐田さんどんがお届けしてから、あの今朝その椿は今朝持ってこらせていただきましたといわっしゃるもん。あの永瀬さんの「どうしてやちいうたら」夕べ家内がまいりましたら丁度繁雄さんとここでお合いしてから、繁雄さんから明日ああたげんお父さんが参るときに、すまんばってんかいっちょもってきてくれんのち頼まれておったんでしょう。
しかしそういうですね、ささやかな事でもその思いと言うものが現されとったからです。忘れとったという所から、次にまたこう、どこまでも続けられるという事が素晴らしいですね。それでみて御覧なさい明くる日は自分の手を煩わせんでもちょっと永瀬さんなここにもって来ておられるという事なんです明くる朝は。それがです取って付けた様にです。例えばんなら花ば一枝持って来ると言うとと違うという事。いつもかつも心の中にあるということ。いつもそこの所に心を掛けておられるということ。
取り入れの忙しい時でも、あぜ道からちょっと野花のひとつもおしょってこうという心がけがいつも心の中にあるということ。なるほど神様は「庭の塵葉でも」とおしゃるが、庭の散り葉でもとおっしゃるが。日ごろそういう思いがあってそういうふうに現れた時には庭の塵葉でもお受けになることがわかるということ。だからそういうような思いをひっくり返したときですたい、そういうささいなことの中にでも神様のお働きが頂けるんだという御理解だった。
昨日熊本から2人連れで参ってきた。ばらばらにして椛目のお広前で何時に落ち合おうということであった。私は昨日丁度歌舞伎座から歌舞伎の実況放送があっておった。これだけはお許しをいただいて両親もすきだし私も好きだし、丁度3時ごろだっでしょうかそれを見せていただきよった「若先生も熊本から弘子さんが来ておりますよちいう」「あーそうか」村上さんがここで何時にあのうここで落ち合うようになってるげなけんでと云うて、あのいよりました。
そしたらその後から芝居の半ばに、今日はもう見られんか思よった。そしたら電話がかかってきた「久留米に着いたとたんに腹がせきだした、それで友達の家でしばらく休ませてもらっとるけんでに、チヨット待ってくれ。」よという電話なんです、神様おかげ下さるなと思いよった、腹痛か思いさせてから済まんばってんが、私一人のためにです、神様がお芝居がすんだ、下え降りてきた、あ、まあだ村上さん帰ってこんね」と言う口にやってきたもう不思議でした。
降りた途端に具合がわるくなった。そしてからおかげ切をいただいてケロッとようなったから次のバスでやってきた、と云うように、例えば私が好きな芝居、許されているということがそのようなことの中からでもわかるでしょうが。もちろん村上さん自身は今朝出掛けにお知らせをいただいておった、そのことがめぐりのおとりはらいにもなるんだから不足に思うなという意味の事をいただいておった。
決して腹が痛かったから、損したということはない。そのとこによって、おかげも本人に下さっておりゃ、私にも万事お繰り合わせ下さっておると言うようなことがです、こう言う例をいえば、椛目ではきりのない話なんですけれども、そういう例えば、そういうような中にでも、些細な事の中にでもです、神様のそういう働きを頂けるということは、些細なことにでもです、神様の喜びがいただける何物かを、私と神様の中に交流しているのだと、私が神様の上に思いを続けているならばです。
神様がまた大坪総一郎のことを、思い続けておって下さるんだということ、この事実でわかるでしょうが例えて言うなら。この辺に一分一厘間違いのないという、おかげがいただけるです。今日は秋永先生が御祈念後にやって参りましてから、玉置さんが手洗いの出来上っているから見にきてくれという事であった。だから先生も来てくださいという正義さんも来りゃ古賀さんも来る。丁度一緒に時間も出ようと言う所に古賀さんも来たから一緒にまいりました。それでまあ、こちらの注文よりちょっと違っていた。
このふちが少し勾配を付けなければならんのが、もうほんのわずかしかついていなかった、それでまあ、そこの勾配をつけなければならないことをです、まあお願いしてきた訳ですけれども、その中にです、とにかくあの一間半からあります、お手洗いばちですからね、しかしここにこう柄杓を置くのにね、何を置くかという、勿論竹をこう置くけれども、まるつきり、その干し物竿を置いたような感じになるわけですよ長いから、やはりあぁゆうところには、青竹なんかが一番がいいんですけれどもです。
もちろんそげな、なにか化粧のしょろ縄なんかで、くくってしましょうけれども、あまりの長すぎ、なにかよい工夫はなかろうかということでした。ありやしたら、どうしたことからだったかしら、そのあちら事務所に行きましたらですね、丁度ねこの厚さぐらい、そしてこのくらいより、ちょいと薄いかね、厚さとこのくらいばっかりの、高さの御影石なんです、御影石をきれいに磨き上げてですね、今日玉置さんが言うのにね、丁度あの一斤と何ぼぐらいある杓のような感じですこれぐらいの、こんなことしたことは始めてだと、暇に任せてその、いまあの石を切る鋸ができている。
こげなことでもできるだろうかと思うて、いま細工してみてからその、1間何ぼの杓のような御影石をつくっとった自分が。もちろんそれは磨きは懸けてある。それに私はあの、みが付いてですね、それでここんとこにちょっと台を作ってこう置けば、御影の手洗い鉢の上御影のその、丁度柄杓を置かせていただくのに、もうこんなことは、まず他所にはなかでしょうね、まずこんな縁のようなものが、だからろくそにすればおれなすよね、そんな長いのですから。
それぐらい磨き上げてある、まるっきりその誂て創ったっのようにあるということ。しかも今こりゃ竹ではどうもとあまり長いから、と言う所にもう、最高の最適のです、そういう物が玉置さんがはじめて試作してみた作ってみた。別に何に使おうということはなかった、こうそいう事でも出来るだろうかというわけなんです。、これで良かなら献納さして頂きましょうという訳なんです。
だからそれをもう少しきれいに磨きかくるところはかけ、切るところは切っとって下さいというてまあ今日は帰ってまいりましたけれどもです。日常のなかにでもそういうようなです働き、おかげいわゆる死ぬる時だって生きるときだってですタイミング良うお繰り合わせが頂けるというそういう働きの基を持ってござる神様だということ。そこから例えば皆さん分からしていただくでしょう。
なるほどこの神様はです、一般では、無情の風はときを嫌わんと云うけれども、神域ばっかりはしょうがないというけれども、その神域ことですらがです、自由な神様でおありになるという事。ですからそういう時だけ、どうぞ、お願いしますじゃなくて、常日頃です、今私が申しますような、信心内容がです、只今申しますような、些細な事にでもお働きがいただけれるためには、些細な事にでも実意を込めさしてもらう、常日頃の普段の信心が大事だという事。
生きておる時だけは、もうしょうがないから、あの世で極楽に行こうというのじゃなくて。この世で成る程極楽、神様のご守護を受けておるんだというような、実感の中にです、お繰り合わせをいただいて行って。初めて死ぬる時にも大して驚くことは要らんなあ、こういう、お繰り合わせの中にいけるんだぞと、いうものがうまれる、それを私は安心、死生の安心だと思うんです。
生まれる時だって、死ぬる時だって、もうこればっかりは、生き死のことばっつかりは、しようはないという、一般の観念からです、それを一つ脱皮したところの、信仰だということ。成る程無常の風が「金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」と仰る。そういうおかげを、私どもは現していくことがです、私共がいうおかげという事だと思うです。私は思うんです。
どうぞ。